SRC造とは
SRC造(えすあーるしーぞう) SRC造のSRCとはSteelReinforcedConcreteの略。鉄骨で骨組みを作り、その周囲に鉄筋コンクリートを被せて主要な構造体を作成する。こうして作成した構造体に床や壁をはめ込み、建物を建築する工法。鉄骨の剛性・コンクリートの圧縮に対する強さ・鉄筋の引張力に対する強さを兼ね備え、抜群の強度を持ち、耐久性・耐震性にも大変優れている。さらに、非常に強固なので設計の自由度も高く、柱の間隔を広く出来るので、開口部を大きく取る事が可能。しかし構造体の重量は大変重くなり、基礎は大きくせざるを得ない。また、工期が長くかかる他、建築費用も高価になってしまうので、一般に高層建築物などに使用される。 明治元年(1868年)9月、仙台藩は新政府軍に降伏し、公現入道親王は京都で蟄居を申し付けられた。明治2年(1869年)9月、処分を解かれ、明治3年(1870年)10月に伏見宮家に復帰。明治天皇の命により還俗し、幼名の伏見満宮(ふしみ・みつのみや)と呼ばれた。このとき上京を命じられ、同時に2年前に駿府で談判した因縁のある熾仁親王の邸に、ドイツ留学に出発するまでのあいだ同居する事となった。明治5年3月、弟北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続。 明治3年(1870年)12月ドイツ(プロシア)に留学のため、日本を離れる。明治9年12月、ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約する。そして、明治政府に対し、結婚の許可を申し出る。これに対し、明治政府は難色を示し、帰国を命じる。帰国の直前、能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したことから、政府高官の間で大きな問題となった。明治10年7月、帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄し、京都で謹慎する。 不動産は陸軍で職務に励んだ。1884年(明治17年)は陸軍少将、さらに1892年(明治25年)中将に昇進している。また、獨逸学協会の初代総裁となり、後に獨逸学協会学校設立に尽力した。 1893年(明治26年)11月10日に第4師団長となる。1895年(明治28年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討に近衛師団長として出征。マラリアに罹患し、台湾全土平定直前、台南にて薨去。 皇族としては初めての外地における戦没者となり、陸軍大将に特進後、国葬に付され、豊島岡墓地に葬られた。また国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神社(のち台湾神宮)、終焉の地には台南神社が創建された。また、後に台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされていた。敗戦後、台湾神宮や台南神社などの北白川宮能久親王を祀った60の神社(台湾の神社参照)は破壊されたため、現在は靖国神社にて祀られている。 FXの庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげた数奇な人生は日本武尊に喩えられた。 [編集] 薨去の日付と暗殺説について 「10月28日」説と「11月5日」説とがある。10月28日に薨去したとする説は当時の公表された日付である。戦闘作戦中だったため薨去は秘匿され、宮中における発喪が11月5日となった。その後すぐ、親王は蕭壟(今 台南県佳里鎮)で暗殺されたのだという噂が流れる。 しかし、戦時中に限らず皇族の凶事がしばらく秘匿されるのは明治以前からの慣習であり、なにも能久親王が特別のことではなかった。それゆえ、薨去の発表が実際の薨去日とずれていることを不審としてこれを暗殺の噂が流れた理由であるようにいう説があるが、無理があるように思われる。またゲリラによる暗殺という理由で発喪の遅れが説明できるのかどうかも判然としない。 先物取引が率いていた台湾征討軍の主敵は、清国軍の残党で中国人勢力が二つあったが、両者ともに親王薨去の段階ではとっくに大陸に引き上げていた後であった。暗殺の犯人は「抗日ゲリラ」「台湾遊撃軍」「生蕃土民兵」等、文献によっていろいろに表現されるが、実態が不詳で、主敵だった清国軍残党とのつながりもよくわからない。暗殺だったとしても、犯人が主敵軍の刺客だったとか抗日ゲリラだったとかの説はとくに根拠がないようである。 戦前の『姓氏家系大辞典』も10月28日薨去とする。昭和版『皇族華族大鑑』(霞会編)では10月28日になっていたのを平成版の同書ではわざわざ11月5日に改訂しており、これは誤記とは考えにくいから、なにか拠る所があったのであろう。 東武天皇は即位していたか? 戊辰戦争中の慶応4年(1868年)、彰義隊に擁立された頃、または奥羽越列藩同盟に迎えられた頃、東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に就いたという説がある(親王に常に従軍していた僧義観の日記から、四月頃からすでに用語などは天皇扱いであったことが知られ、彰義隊に擁立された頃に践祚したか少なくともその計画が明確化していたことが推測できる。また奥羽越列藩同盟に迎えられた頃に即位したというのは後述の史料による)。 FXの先駆者は瀧川政次郎である(「日本歴史解禁」昭和25年)。その後、武者小路穣教授の「戊辰役の一資料」(『史学雑誌』第61編8号、昭和28年)、鎌田永吉の「いわゆる大政改元をめぐって」(『秋大史学』14号、昭和42年)と続き、昭和56年、藤井徳行「明治元年 所謂「東北朝廷」成立に関する一考察」(「近代日本史の新研究1」)で詳細な研究がまとめられた。 佐々木克説によると、奥羽列藩同盟の盟主となった輪王寺宮を天皇に推戴し年号を「大政元年」とする構想があったにすぎないとする。 中山吉弘説によると輪王寺宮は即位して東武天皇と称されていたと言う。そして年号は「延寿元年」だったと言う。 この説は北東北戊辰戦争に従軍した山本八十吉の話(『大館戊辰戦史』93頁)、斬殺された仙台使節の罪状書きに「尊氏の悪例」と書かれていた(『仙台戊辰史』)ことを根拠とする(中山吉弘編著『明治維新と名参謀前山清一郎』〔東京図書出版会、2002年 ISBN 4434013491〕を参照)。 直接的な史料としては俗に「東武皇帝の閣僚名簿」などと通称されるものがあり、現在3種類が知られる(蜂須賀家資料・菊池容斎資料・郷右近馨氏資料)。 「東武」という言葉の由来については輪王寺・寛永寺等を参照 東武天皇の年号について。「延寿」の年号はすでにこの年の四月頃から奥羽を中心に流布していたことが当時の新聞で確認できる。「大政」は蜂須賀家資料と郷右近馨氏資料には即位は六月十五日(8月3日)とある部分でこの時すでに「大政」と改元されているかのように読めるが、菊池容斎資料では六月十六日に「大政」と改元したとある。 還俗後の諱(俗名)は「陸運(むつとき)」としたという。 播磨赤穂(現・兵庫県)に医師の子として生まれる。1852年(嘉永5年)に岡山藩の閑谷学校で漢学を学び、後大坂の緒方洪庵の主宰する適塾で蘭学と西洋医学を学んだ後、1854年(安政元年)江戸に出て坪井塾で塾頭となる。1857年(安政4年)には縄武館(江川塾)に教授として招かれる傍ら、西洋砲術を学んだ。1863年(文久3年)に陸軍所に出仕した後、幕臣に取り立てられ1868年(明治元年)歩兵奉行に進み、幕府陸軍の育成や訓練にあたった。 FXでは主戦論を唱え、伝習隊を率いて江戸を脱走し、宇都宮、今市、会津を転戦する。仙台にて榎本武揚と合流して蝦夷に渡り、箱館政権の陸軍奉行となる。箱館五稜郭で抵抗するが降伏し、投獄される。大鳥は、確かに用兵学には通じていたが、実際の戦闘指揮は、それほど上手とは言えなかった。だが、「将才」は無くとも「将器」は有り、連敗しても泰然としており、常に笑顔を失わなかったと言う。五稜郭の戦いでも、敗北が決定的になった後、あくまでも徹底抗戦を主張する同僚に「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか」と開き直って降伏を受け入れた。 1872年(明治5年)に出獄後、学識が高く評価されて新政府に出仕し欧米を視察。帰国後は技術官僚として工部省などにて殖産興業を牽引し、産業の近代化に貢献した。工学寮・工部大学校校長として多くの工学博士を世に輩出、工作局長として官営工場を総括、セメント、ガラス、造船、紡績、石油開発など、諸工業の模範事業を実施し、技監として鉱業・鉄道等インフラ開発にも関わった。 また、内国勧業博覧会の審査員として、諸発明品の展示、解説、評価を行い、国内諸産業の普及と民力の向上に尽力、私人としては「工業新報」を発刊し、実用的先進的技術の普及活動を行った。また「堰堤築法新按」を翻訳し、民間草の根レベルの水利・ダム技術の紹介を行った。 工部大学校校長、元老院議官、華族女学校校長、などを経て、1886年(明治19年)から第三代学習院院長となる。1889年(明治22年)、駐清国特命全権公使として赴任し、朝鮮公使を兼任。日清戦争開戦直前の外交交渉にあたった。のち枢密顧問官を務めた。男爵。 出身地の岩木は現在の兵庫県赤穂郡上郡町域に当たり、上郡町役場前には大鳥の銅像が立つ。